そばの歴史
九千年前から食文化に
寄り添っていた「蕎麦」
蕎麦をさらに美味しくいただいてもらうお話し
中国4000年より深い「そば」の歴史
日本のそばも、元をたどれば大陸伝来の食べ物となる。植物のソバの原産地は、DNA分析などから現在では中国雲南省からヒマラヤあたりにかけてという説が有力になっている。
だが、日本でソバの栽培が始まった時期はかなり古くまでさかのぼれる。日本史の中でも最も古い時代区分の縄文時代にたどり着くともいう。高知県内で9000年以上前の遺跡からソバの花粉が見つかり、当時からソバが栽培されていたと考えられているのだ。さいたま市岩槻区でも3000年前の遺跡からソバの種子が見つかっている。
「蕎麦」が初めて、歴史的文献に上ったのは、797年に完成した史書『続日本紀』においてである。奈良時代前期の女帝だった元正天皇(680~748)が出した詔の中に、次のような「蕎麦」の記述がある。
かつて、そばは麺ではなかった
今、「そば」といえば、だれもが色の少しついた長細い麺の食べものを思い浮かべる。だが、少なくとも16世紀頃までは「そば」に麺としての形を見出すことはできない。そばの歴史の中で、そばは長いこと麺ではなかったのだ。
そば屋に入ると、そば粉を湯でこねて餅状にした「そばがき」や「そばもち」を食べることができる。このそば粉を練った食べ物こそ、そばの長い歴史の中では「そば」であり続けたのである。
ということは、今やどこでも見られる麺の形をしたそばは“発明品”ということになる。麺状のそばには、包丁で切って作ることから「そば切り」という呼び方も付いているくらいだ。現代人の観点からしてそばがそばらしくなったのは、つまり、そば切りが誕生したのはいつ頃のことだろうか。
江戸中期の俳人だった森川許六(1656~1715)による1706年刊の俳文集『風俗文選』では、「そば切り」の発祥地が次のように伝えられている。
「蕎麦切といっぱ、もと信濃国本山宿より出て、普く国々にもてはやされける」
本山宿は中山道の宿場の1つで、今の長野県塩尻市内にある。1706年の時点では、すでに「普く国々に」広がっていたようだ。では「そば切り」の誕生はいつ頃、誰によってなされたのか。
実はその起源は今も謎のままであり、どこまでさかのぼって「そば切り」の記述を見つけられるかは現代でも争点となっているのだ。
救荒食からハレの食品へ
1574(天正2)年の「定勝寺文書」より以前の書物では、今のところ「そば切り」の記述は見出されていない。謎の部分もまだ多いが、そば切りは16世紀のいつ頃かに誕生したものと考えてよさそうだ。
そば切り、つまり麺としてのそばが世に出てからというもの、そばに様々な変革の手が加えられていった。江戸時代に入り、17世紀から18世紀頃には、そば粉に“つなぎ”としての小麦粉を混ぜるそばの製法が打ち立てられたとされている。
江戸時代から今の「そば屋」に
今も続く「そば屋」が開店したのも江戸時代だ。江戸の麻布永坂町では、江戸暮らしをしていた信州の行商人の清右衛門が1789(寛政元)年、「信州更科蕎麦処」なる看板を掲げた。「更科そば」は、ソバの実の中心のみを挽いた白い上品なもの。信州からの直売を売り物にし、江戸中で受けたという。
多種多様化してきた「そば」
そば粉のみのそばは「十割」(とわり)、小麦粉2に対してそば粉8の比率のそばは「二八」(にはち)、同様に、「三七」「半々」も誕生した。
さらに、そば粉10として小麦粉2の割合の「外二」なども誕生した。粉の混ぜ方が多種多様になったのは、それだけ人々がそばに興味を持つようになった証しと言えよう。